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にこにこいっちゃん。

子育て中の日常から、社会問題の考察、お役立ち情報まとめ、備忘録など、徒然なるままに書き綴ってみる予定です。

犯人であると明らかな容疑者がそれでも素直に自供しない理由。

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先日主人と「娘が大きくなったら~」とお互いしたいことを話していたときのこと。主人が「防犯のために娘には内緒でGPSを持ち物に付けてまわる!」と言い出し、それもいいかもしれないと思いつつ、最近の物騒な世の中について考えた。小さな子供を連れ去って殺してしまう痛ましい事件が現実に起こってしまう世の中だ。連れ去られたら最後、きっともう会えない。我が子がそんな目に合うことを考えるととても恐ろしい。過保護と言われても防犯は大切だろう。そして出産してからなおさら思うが、この手の事件の報道を観ると毎回本当に心が痛む。

現在裁判中の吉田有希ちゃん殺害の『今市事件』に関して、思ったことがある。皆が感じていることだとは思うが、『日本は犯罪者に甘すぎる』。自身の勝手な理由で取り返しのつかない罪を犯し、その上自らの全てを賭してその罪を償って生きていく覚悟のない者。そういった輩には、それ相応のしかるべき処罰をするべきではないだろうか。失ってしまった命はもう戻ってこないのだから。我が子だったらと思うと犯人をきっと許しはしない。「間違えましたごめんなさい」ではすまないのだ。

ニュースでこの『今市事件』の取り調べの様子が連日取り上げられている。彼の容疑者の様子にはとても反省が見られない、と私は感じる。昨今の法廷では責任能力正常な判断能力の有無が度々取りだたされるが、そこは果たして本当に争うべきところなのだろうか。

私自身、二年間ほど引きこもったことがある。当時私は全てに絶望し、何もできない現状に嘆き、見えない未来を恐れ、ただただ悶々とした日々を生きていた。自分を誰かに否定されることが怖く、周りのすべてが敵に見えた。以前は普通にできていた外出もできず、レジに並ぶことやファミレスで注文することでさえ恐ろしかった。

私はその日々の中で、自分の中に長年眠っていたたくさんの苦しみ・悲しみを一つ一つ紐解き、見つめ直し、考えていくという作業を行った。その時の私の態度は彼の容疑者が取り調べの中で見せた「もう無理!もう勘弁して!」という態度に酷似していた。

彼の生活環境から考えて、彼もまた当時の私と同じ【社会に取り残されている】人なのだろうと感じた。なぜ自分がこうなのかもわからず、ただただうまくいかない全てが憎らしく悲しかった。周りのキラキラしている人たちが妬ましく苦しかった。彼らと自分の何が違うのかわからなかった。だが、だからといってそれが無関係の他人を、それも無力な幼子を傷つけていい理由にはならない。

あの態度は、「責められること」「否定されること」への恐れからくるものだ。引きこもってしまっている人間にとって自身を否定され責められることは何よりも恐ろしい。そう言った人間は皆総じてプライドが高く、殊更に自分が可愛い。そのプライド故に彼らは生き辛いのだ。取り調べでありのままを自供し責められることは嫌だ。自信を貶めることになることも極力言いたくはない。少しでも理解を得て罪が軽くなるような言葉や逃げ道を探す。そんな人間は『無実になるかもしれない』という誘惑に簡単に流される。あのやり取りからはそういった彼の心理が透けて見えるように私には思えるのだ。

しかし、その生き辛く鬱屈した精神環境から抜け出した者として言おう。自分を知り、プライドを捨て、状況を打開してみれば、考え方も世界も変わる。視野が広がる。「今の悩みなどなんてちっぽけだったのだ」と「自分は何て幼かったのだ」と思えるようになる。かつての自分はいうなれば、『頭でっかちの駄々っ子』だったのだと。・・・ただし彼に関して言えば、もう遅い。それに気づくときが真の苦しみの始まりだろう。今はまだ「なぜ自分が」と悲劇の中で甘い夢を見ていることだろうが、彼は越えてはならない一線を越えてしまった。自らの弱さや幼さから目を反らすことをやめ、彼がその事実に気づくとき、その罪の重さが彼を押しつぶすことになるのだろう。

こういった事件において、「妄想と現実の区別がつかない」「心を病んでいるから正常な判断ができない」という見解をよく耳にする。が、これに関しては私は全力で否定する。心を病んでいる人間は重度の薬物依存等とは違い、妄想と現実の区別はついている。そしてその行いが「悪いこと・許されないこと」だとも理解している。引きこもってしまうような人間は人一倍過敏で自身が周囲にどう思われているかを酷く気にするものだ。そう、ここが重要だ。「気にする」ということは「いいこと」と「悪いこと」の区別がついているということだ。基準がわかり、判断能力があるからこそ自分と周りを比較できるのだ。本当に善悪の線引きすらわからない人間は悩むことさえできないのだから。

彼らは成功体験に飢えている。何をやっても思うようにいかない己の状況を悲観し、プライドの高さ故にそれが我慢ならない。そして「やってはいけないことをできる自分」を夢想する。「自分がこれをやったらどうなるだろう・・・。」自身が成り上がる夢でも見ていればまだ救いがあるが、時にその鬱憤が弱者へと向くこともある。自分より弱い者を虐げる方が強者に勝利するより現実味があるからだ。そしてゲームの中で、小説の中で、妄想の中で、その世界を幾度も体験する。そうする中でその「禁を犯す感覚」に囚われ、忘れられなくなる。現実にやってみたくなる。人は開けてはならない箱こそ開けたくなるものだ。彼らはわかっているのだ。これは現実だと。許されないことだと。だからこそ「やってみたい」のだ

罪を犯す者はどのような事情であれ、そのやってはいけないラインを越えて罪を犯す。罪を犯すとき、事故や過失、その他よっぽど思いもよらない罪に問われた場合を除けば、それが罪だと加害者は十分に自覚している。たとえ衝動的な行動だとしてもだ。少なからず罪の意識を持ち、その上で各々ののっぴきならない事情や自分だけは大丈夫という軽い気持ちでその行動を選び取る。『今市事件』においても、きっと犯人は罪の意識を感じてはいただろう。彼に罪悪感があったかはおいておいて、それが『罪であること』はわかっていたはずだ。これが本当に「判断能力がない」と言えようか。そしてその被害者となってしまったのが、何の落ち度もない、無関係の小さな女の子だったとしたなら・・・それは決して許される問題でも情状の余地のある事件でもない。冤罪を訴えるならまだしも、その判断能力の有無を問い罪を軽くすることはただの甘やかしでしかない。己が罪はきちんと罰し償わせるべきだ。もし反省もせぬまま一度許されれば、彼はまた「もう一度」とやってみたくなるはずである。

己の行動が起こした結果を受け入れることは大切である。自由を求めるなら責任が伴う。権利を行使するなら、義務は果たさねばならない。しつけをする上で子どもが間違ったことをすれば怒り、その結果を理解させることは重要である。「わからないから仕方がない」が通じるのは幼子までだ。こと人の生き死にに関しては子どもでも分かる。犯した罪は償わなければならない。その方法は多々あれど、今回の事件に関しては決してその境遇を理由に罪が許されてよいものではない。何の罪もない有希ちゃんの未来は、その家族の幸せとともに葬られてしまったのだから。今回の裁判が加害者の罪を明らかにし、しかと裁くものであることを願う。

 

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