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にこにこいっちゃん。

子育て中の日常から、社会問題の考察、お役立ち情報まとめ、備忘録など、徒然なるままに書き綴ってみる予定です。

『認知症患者鉄道事故裁判』から考えた社会の現実。

今あちこちのニュースで取り上げられている認知症患者の監督義務』について考えてみた。

そもそも『監督義務者』とは何だろうか。

 

監督義務者の責任(かんとくぎむしゃのせきにん)とは、民法上の責任能力の無い者(責任無能力者)が不法行為責任を負わない場合において、その者の法定監督義務者が責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任をいう(民法第714条1項本文)。この監督義務者の責任は、監督義務者がその監督義務を怠らなかったとき、あるいは、監督義務を怠らなくても損害が生じたであろう場合には責任を免れる(民法第714条1項但書)。なお、監督代行者も法定監督義務者と同様の責任を負う(民法第714条2項)。

出典:監督義務者の責任 - Wikipedia

 つまり幼いこどもや障がい・認知症等で正しい判断が難しいとされる人には、その家族等が監督義務者となり、責任をもってその行動を管理しなければならず、もしも何かしらの損害を他者に与えてしまった場合にはその損害を賠償しなければならないということである。

 

物議を醸す『認知症患者鉄道事故裁判』。

 今回の事件の裁判においてこの監督義務者という存在が広く世に知られることになった。世論はこの民法規定に様々な見解を生んだが、今回、その判決を導き出す過程で結果的に焦点があてられたのは妻と長男が監督義務者にあたるかどうかであった。

妻は自身も要介護認定を受けているという点で、長男は20年以上別居状態だったという点で、彼らは監督義務者にあたらないというのだ。

 

私は今回の事件について、両者に賠償を求めないこの判決は至極良心的なものであると考えているし、結果としては何ら異論はない。80歳を過ぎたお年寄りの女性に認知症になった配偶者の行動を完全に管理しろというのは、現実的に無理がある。物理的距離のある長男はもちろんのことだ。

 

今回の事件の報道を通して気になったこと。

 私がこの報道を通して気になったことは三つある。

一つはそもそもこの裁判の判決を導くにあたり裁く側が論じるべきは、二人が『監督義務者かどうか』ではなく、この二人の行いが『監督不行き届きになるのか』という点だったのではないのかということ。そして二つ目は、今回世論が目を向けるべきは『そもそも十分な監督ができない状況で認知症患者が過ごさねばならない現状』なのではないのかということである。そして最後、私が最も言いたいことは、鉄道会社がこの裁判を起こす理由が本当にあるのか』ということである

 

『監督義務』の限界。

 そもそも監督義務を何の過失もなく完全に遂行できる人間がいったい何人いるのだろうか。介護にしても育児にしても、まったく目を離さずつきっきりで生活を続けることなどできるのだろうか。答えは否だ。例えば家事をしようと数分子どもから目を離したとする。その隙に悪戯好きの子どもがこっそり抜け出し事故にあったとしよう。それはこの母親に罪はあるのだろうか。「普段から言い聞かせておけばよかった」「部屋に鍵をかけておくべきだった」後から考えればいくらでも過失を挙げることはできるだろう。しかし本当にそれを完璧に日常的にこなすことが果たしてできるだろうか民法にも記載がある。「監督義務者がその監督義務を怠らなかったとき、あるいは、監督義務を怠らなくても損害が生じたであろう場合には責任を免れる」今回はこれを適用するべきだったのではないか。

 

高齢者を取り巻く環境。

考えてみてほしい。今回の裁判、監督義務不行き届きに問われた妻は自身も高齢である。自分より大きいだろう人間の行動を制限などできるだろうか。それも目を離した隙に出て行ってしまうような状態の人間を。本気で管理したいのならば、施設に入れるべきだ。長男も然り、傍で見守れない事情があるのなら施設に入れればよかった。しかし何らかの理由でその選択ができなかったからこそ、高齢者が二人で生活する状態に甘んじていたのだろう。そしてそれがこのような事件になろうとは想像できなかったとしても無理はないと思う。先に述べた二つ目がこれだ。今日本にはこういったお年寄りが多数存在する。身寄りがなく孤独死してしまう人、子どもがいても家庭や仕事があるため同居が困難な人、施設に入るための金銭がない人。各々理由は様々であるが、そういった人が多いのは紛れもない事実である。この問題は総じて社会全体で取り組むべき問題であり、個人レベルで解決できないものが多い。その中で、皆必死に理想と現実に折り合いをつけながら生きている。これは極めて重大な社会の歪みと言えるだろう。だがしかし、この問題を司法の場で争えというのは法への過剰な期待というべきである。俗にいう、『司法の限界』となるためだ。

 

鉄道会社は当事者ではなく保険に頼るべきだ。

 どのような事情があろうと例えその事情が一個人に解決できない物であったとしても、それは損害を受けた鉄道会社には関係のないことである。損害は損害。被害は被害だ。確かに被害を受けたのがまた別の個人であったのなら、今回のように遺族を訴えたくなる気持ちも理解できる。しかし今回の訴えを行ったのは企業だ。鉄道会社という団体だ。負ったのは不利益・損害であり、人命を失ったわけではない。それなのに鉄道会社がその損害の補填をその原因となった認知症患者の遺族に求めるのは少々やりすぎなのではないだろうか。この一件は悪意ある行動ではなく不幸な事故なのだから。そこで考えたのだが、鉄道会社はこういった人身事故による損害に対して日頃から保険を掛けることはできないのだろうか。その保険から損害を補填すればよいのではないだろうか。調べてみると詳しくはわからないがやはりあるようだ。ならばまずはそれを使え!それで十分ではないか!故意に起こしたわけではない事故で遺族に賠償金を迫るのは、ある意味人道に反したやくざ的行為だ。遺族を苦しめる悪質な所業だ。そう感じるのは果たして私だけなのだろうか。そして報道は何故、そこに目を向けないのだろうか。

 

 

 

 

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